US-Japan Dialogue On POWs
未処理の仕事
クリスチャン・カリル
「Foreign Policy」 2010年6月28日掲載
レスター・テニーは、体重80キロの頑丈な21歳の青年として第二次大戦に参戦した。1945年に日本による監禁から解放された時、彼は、打ち砕かれ痩せ衰えた障害者だった。彼の左腕と肩は、彼が奴隷労働者として送り込まれた炭鉱内での事故が原因で、一部麻痺していた。そこの監視員(帝国陸軍の兵士ではなく三井の民間人職員)は、ハンマーとつるはしで繰り返し殴り、彼の歯を叩き落してしまっていた。戦争が終わった時、彼の体重は44キロだった。何とか戦前の状態に近い健康を取り戻すため、彼は米国陸軍病院で一年を費やさなければならなかった。
その後65年の月日が流れ、テニーと仲間の元捕虜(生存者は毎年激減している)は、今だに勝利の最大の果実を待っている。テニーと彼の捕虜仲間をかつて虐待した日本企業はこれまで、彼らの犯罪に対する責任をを認めたことはなかったし、補償やいかなる遺憾の意も、もちろん提供したことはなかった。(企業は、戦時中の労働不足を補うために捕虜を必要としていた。)日本政府は、起こったことに対してやっと遺憾の意を表明し始めたところだ ― ほとんどの元捕虜にとっては遅すぎたのだが、それでも何かではある。おそらく最も気が滅入るのは、両国の複雑な戦後関係に根ざした共謀政策の結果、米国政府が長年、何もしようとしない日本の姿勢を許してきたことである。これでさえ、やっと変わるかもしれないという兆候が見えている。希望は決して死なないと、よく言うではないか。
うつ病うつ病の経済
最近この話題がまた出没した時、私はこれらのこと全てを思い出させられた。非常に気が滅入るこの物語について、ほとんどのアメリカ人は聞いたことがないのではないかと思う。それは、その共謀に加担したもう一つの容疑者を思い起こさせる。メディアだ。私自身、責任を負うべきこのグループの一員であったことを、認めなければならない。私は数年前、アメリカを代表するニュース雑誌の東京特派員であった。私は日本でテニーと会い、学校のクラスで講演するのに同行し、彼が若い世代に体験談を語るのを見た。しかし私は(私の雑誌の)編集者にこのストーリーに興味を持たせることができなかった。彼らが冷たい人間だったからという訳ではない。彼らは日本にあまり関心が無く、日本の過去の悪事の話題にはさらに関心が� ��かったのだ。確かに、それは語り尽くされた話題に違いなかった。私だって「戦場に掛ける橋」はもう観ていたのだから。
(関心を持たない) 彼らが悪いとばかりは言えないのかもしれない。それならしばらく、日本軍に捕われた連合軍捕虜の驚異的40%が生還しなかったという事実を忘れたらいい。彼らが、"戦闘疲弊"(今日でいうところのPTSD)を患っている割合が、アメリカの全ての第二次大戦帰還兵の中で最も高いという事実を忘れたらいい。捕虜を60社もの日本企業に売り渡すことが、戦争法規のあくどい違反に相当したという事実も、企業で働かされる間に彼らが受けた扱いが日本帝国陸軍自体の規則に違反していた事実も、忘れたらいい。中国と韓国の捕虜や強制労働者が、(敗訴しながらも)いまだに自分達の請求を日本の法廷に認めさせようとしている事実も忘れよう。遠い昔のことだ。
マンソン医療センターの減量プログラム
別の問題もある。この件がはからずも、過去に政府が犯した罪を調査しようとする時に付きまといがちな、無数の法的・政治的機微に包まれた問題の一つであるということだ。この場合、日米同盟の特異な歴史について少し説明しなければならない。朝鮮半島が冷戦の真っ只中だった1951年、米政府は、共産陣営の極東進出への防波堤として、再生した日本が必要なことに気付き、戦時中の請求を清算し、日本政府の西側陣営への忠誠をその後何十年にもわたって確保することを目的とした幾つかの合意に署名した。それらの合意の一つで日本は、自国領土に米軍を駐留させることに同意し、別の合意(サンフランシスコ平和条約)でアメリカは、賠償請求を放棄した。
条約の16条は、日本が「償いをする願望の表現として」形ばかりの額を赤十字国際委員会に支払うことを課したが、条文はその支払いを、前例を形成してしまうかもしれない"補償"と表現することを、注意深く避けた。捕虜の請求権は、その後一切認められないことになった。
米国の元日本軍捕虜たち自身は、日本から何も得られなかった。もちろん彼らが一番切望したこと ― 帝国陸軍ばかりでなく捕虜を労働者として使った数十の企業からの、彼らを残酷に取り扱ったことに対する公式な認定 ― も得られなかった。(これらの会社の一社たりとも捕虜の労働に対して報酬を支払わなかったことは、明記されるべきである。)日本が初めて、戦時中の行為に関して明確に公式謝罪をしたのは1995年、村山富市政権になってからである。その後数年にわたり、オーストラリア・イギリス・カナダ・オランダ・ニュージーランド政府は、元日本軍捕虜に誠意を示すことが日本の利益に叶うのだと、何とか日本を説得した。そこで日本政府は(謝罪の代用としては奇妙な形だが)これらの国の元捕虜を、全費用持ちで、日本再訪の旅に招待することになった。
自動車車の悪い腰痛ベスト
しかしアメリカの捕虜は取り残された。そして彼らの政府は、驚くほど喜んでそれを放置した。政治的理由 ―この場合は、米日同盟を円滑に維持することの優先順位が正義より上、ということだった。「アメリカは、この件に関して100%共犯者でした。」と、ワシントンのシンクタンク「アジア・ポリシー・ポイント」の日本問題専門家ミンディ・カトラー氏は言う。「彼らは、日本が責任をとらないことを許したのです。彼らは、私たちが何より大切に思う価値を、日本人には求めなかったのです。」
アメリカの生還捕虜たちが、日本に対して(他の国の元捕虜と)同様な扱い求めようとした時、米国務省は何もしようとしなかった。議会も同様だった。テニーは、何度も議会で証言したが、元捕虜のために行動を求める法案は、日本政府との軋轢を避けたい議員からの攻撃に遭い、必然的に委員会で廃案となった。不成立に終わった法案には、各生存捕虜に、戦時中の彼らの苦難を覚えるために1万5千ドルを支払う、というものがあった。
「我々の下院議員と上院議員は、ろくすっぽ支援などしてくれませんでした。」とテニーは言う。(彼は、ダイアン・ファインスタイン上院議員 [民主:カリフォルニア]、オーリン・ハッチ上院議員[共和党:ユタ]、そしてマイク・ホンダ下院議員 [民主:カリフォルニア] などの、彼らのために立ち上がってくれた少数の名前をすぐ付け加えることを忘れなかった。)元捕虜が、彼らをかつて搾取した日本企業を訴えようとした時、米最高裁はそれを聞いてさえくれなかった。(国務省と司法省は、1951年のサンフランシスコ平和条約に抵触するとして、元捕虜の請求に反対する意見書を下級裁判所に提出していた。)
私たちは少なくとも、わずかばかりの進歩をやっと語ることができる。昨年、日本の国会は、ついに捕虜に言及した謝罪を密かに提出したが、これは、捕虜の苦難に対する日本の道義的責任の正式認定を意味する。そして昨年の5月には、サン・アントニオで開かれた元捕虜米兵の集会で、藤崎一郎駐米日本大使が1995年の政府談話にに沿って謝罪した。
大使がこの会に出向いてくるには"かなりの勇気が必要だったろう"とテニーは言うが、元捕虜の中にはまだ恨みを抱いていた者がいたことを考えれば、謝罪を聞いた全てのアメリカ人が宥められた訳ではない。今や国務省の役人たちでさえ、態度を変えたように見える。この数ヶ月日本は、生存捕虜の何人かを日本に招待することを申し出、米外交官も日本政府高官と共にそれを実現するために働いている。今のところ、1,800万円の嘆かわしいほど小額の予算では、たった7人の元捕虜とその付き添いか配偶者しか参加できない。しかしその小さい努力でさえ、恥ずべき過去からの決別になっているのだ。
そして企業はと言えば?「彼らは一銭も出そうとしない」とテニーは言う。「絶対に謝らない」遠い昔に犯した行為を認めることへの恥以外、彼らが謝罪することを妨げているものは何なのかを知ることは、実際難しい。元捕虜の要求は、企業にとって経済的脅威になることはない。(テニーの労働を搾取した三井は今日、世界で最も大きい企業の一つだし、今メキシコ湾にオイルを流出している石油会社の10%の株を保有している。そのウエブサイトには、人権を守るとした確約が念入りに説明されている。)そしてテニーは、彼と仲間の元捕虜たちが求めているのはお金ではない、日本の経済界からの適切な謝罪だと主張する。それが実現するのはそれほど難しくないと、あなたは思うだろう。しかし、それがそうではないのだ。
* オリジナル記事は以下のサイトで読めます。
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